HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲3 Nacht

5 クリストキント


そして、金曜日。ハンスは再び宮坂高校へ出掛け、結城に会った。
「明日の6時、僕の家に来ていただくというのはどうでしょう?」
結城がそう提案した。ハンスが納得したので、5時半に駅前の公園で待ち合わせることにした。

それから、彼はまたショッピングモールに立ち寄って手土産を選んだ。
彼は星やサンタクロースのモチーフのチョコレートを買った。
「お花も持って行った方がいいかなあ」
彼はモールの中を見て回った。

「あ! バウアー様!」
先日訪れたペットショップの店員が呼び止めた。
「先日ご依頼のありました子猫の件ですが、丁度2週間程前に産まれた子の中にグリーンアイのものが見つかりまして……」
「それは黒い毛の猫ですか?」
「はい。お申し出の条件にぴったりでございます」
「クリスマスに間に合いますか?」
「ええ。ぎりぎり1カ月になりますので大丈夫かと思います」
「よかった。じゃあ、その子も一緒にお願いします」


夜には久し振りに美樹と二人でリバーシをした。そんな平和な時間がずっと続いたらいいとハンスは願った。が、突然、ドアチャイムが激しく鳴った。
「こんな時間に誰かしら?」
「僕も一緒に行くよ」
二人がドアを開けると厳つい雰囲気の男が立っていた。
「アル! どうしたの? 突然」
ハンスが驚いて訊いた。
「ねぐらが決まったんで挨拶にな」
男が言った。

「アルって……?」
美樹が二人を見やる。
「彼は画家のアルモス・G・ガザノフ。僕の友達だよ」
「ヨロシクな!」
ぎこちない日本語で挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
美樹も言った。
「ほら、ケーキ買って来たぜ」
アルモスが箱を差し出す。
「ありがと。珍しいじゃないか。アルが手土産持って来るなんて……」
ハンスが言う。

「馬鹿言うな。俺だって他所のお宅に訪問する時にゃ土産くらい持って行くさ。特に女の家に行く時にはな」
アルモスはまだ日本語が上手く話せなかったので、ハンスが通訳した。
「他所のお宅って……。こないだは家の地下室に侵入してたくせに……」
美樹が呟く。
「ああ。アルモスはね、昔から僕の記録を取ってるんだよ」
ハンスは彼女の言葉を聞いても驚かずに言う。
「記録?」
「そう。だから、いろんな所にいたりするけど、驚かないでね」
そう言ってハンスは笑ったが、美樹は少し不満そうに言った。

「それってもっと早く言っといて欲しかった」
もしかすると自分達の会話も聞かれていたのではないかと思うと急に恥ずかしくなったからだ。
(それに、そんな話なら前に一度書いたことがある。人の本性を描いてしまうという画家の……)
「美樹ちゃん、何をぼうっとしてるの? 早くリビングにおいでよ。せっかくアルが気紛れにケーキ買って来てくれたんだもの。みんなで食べよう」
「こら! 気紛れじゃねえって言ってんだろうが!」
アルモスがなまりのあるドイツ語で叫ぶ。
「じゃあ、わたし、紅茶でも淹れて来るわね」
美樹は、そう言って台所に向かった。

「わあ! かわいい! サンタクロースのフルーツケーキだ」
ハンスが箱を開けて喜んだ。
「はは。今はもう、どこもかしこもクリスマス気分でいっぱいさ」
「ありがとう」
ハンスはグラスの器に入ったケーキをそれぞれの前に置く。
「ところで、アル。さっき美樹ちゃんが言ってたけど、知らない間にこの家に侵入してたって……」
「ああ。おめえがここ来てからすぐの時な」

「僕はてっきりアルは外が好きなんだと思ってたよ。会うのはいつも外だったし、向こうでもよく野宿してたじゃないか」
「この寒空に野宿なんかしてたら、凍え死んじまう。ちっとは常識ってもんを考えろよ。まったくどいつもこいつも自分勝手な奴ばかりだ」
「どいつもこいつもって、他にも誰かいるの?」
「ああ。パットの野郎さ。もう1年になるが、せっかく俺が心配してパリくんだりまで会いに行ってやったってのに、新婚生活を邪魔するなときやがった」
「新婚? 彼、結婚したの?」
ケーキに飾ってあった柊の葉を突いていた手を止めて、ハンスは男を見た。
「ああ。おめえも知ってんだろ? ほら、サラ何とかって言う金持ちの……」

「そうか。じゃあ、サラの病気は治ったんだね」
彼らと別れたのは3年前。その間にいろいろなことが変化していた。友人の運命も、自分自身の運命も、知らないうちにどんどん進んで行く。テーブルの隅で燃えているキャンドルの炎は電気で作られている。ハンスは、サラの屋敷に置かれていた蜜蝋のにおいを、ふと懐かしく思った。
「野郎、自分のバイオリンが奇跡を起こしたなんて言ってたよ」
「パットなら奇跡だって起こせるさ。彼が奏でる音は天使が奏でるのと同じだもの」
ハンスはそんなキャンドルの模造の光を見て言う。

「はは。寂しいのか?」
「少し……。でも、いいよ。彼が幸せでいてくれるなら……」
「そう言うおめえだって幸せ真っ最中なんだろ? 俺だって気を遣って来なかったんだぜ。新婚さんの邪魔しちゃ悪いからな」
「でも、僕達まだ結婚はしてないんだよ。残念ながら……」
「何でだ? 相性はバッチリなんだろ?」
「それがね……」
ハンスがそう言い掛けた時、彼女が紅茶のカップを持って来て二人の前に置いた。

「見て? 可愛いケーキでしょう?」
ハンスが言った。
「ほんとに美味しそう! ありがとうございます」
彼女もお礼を言ってハンスの隣に座った。
「ああ、勝手に家に入ってて悪かったな。だが、何でわかった?」
アルモスが訊いた。
「ジョンに聞いたんです」
「ああ。あのアメリカの魚野郎か。案外お喋りなんだな」
「お魚さんが来たの?」
通訳していたハンスが訊く。
「ええ。でも、すぐに帰ったけど……」

「ふん。もともとあの通路は奴らが使ってたんだろ? それがまさかあんたんとこと繋がってるなんてな」
「それが、この家を手に入れる条件だったの」
美樹が言った。
「何? どういうことなの?」
ハンスだけが意味がわからずに二人を見やる。
「ごめんなさい。実は、この家の地下には秘密があるの」

美樹は本棚をスライドさせ、地下へ続く通路を開いた。そこを降りて行くと広いオーディオルームと小さなキッチン。それに彼女のコレクションを収納している小部屋があった。
「これ、モデルガンじゃないか。君ってガンマニアだったの?」
棚に並べられた銃の多さにハンスは驚いた。
「まさか、この銃、本物じゃないよね?」
近くにあったオートマグを手にして訊いた。
「もちろんよ。弾は全部プラスティックのBB弾よ。残念だけど……」
「残念って……。君は、本物の銃が撃ってみたいですか?」
ハンスが訊く。
「うん。いつかハワイの実弾射撃場に行ってみたいんだ」
彼女はハンスの手からマグナム44を取って構える。

「おい、ハンス、おめえの彼女、おっかねえ女だな」
アルモスが囁く。
「わかった。いいよ。それなら僕が連れて行ってあげる」
「ほんとに? ハンス、大好き!」
そう言って彼女が抱き付く。
「もちろん、連れて行くさ。新婚旅行でね」
「おいおい。そんな新婚旅行があるもんか」
アルモスが呆れる。
「いいわよ。実弾射撃場に行けるなら、今すぐ結婚しちゃう!」
彼女が言った。

「ほんとですか?」
「うん。いっそのこと二人でハワイに住んじゃう? そしたら、毎日行けるもん。実弾射撃場に!」
「毎日って……。美樹ちゃん、僕と実弾射撃場とどっちが好きなんですか?」
「射撃場。だっていつか本物の銃を撃ってみたいって夢だったんだもん」
彼女はうれしそうに答えた。
「えーと、僕、結婚は少し考えさせてもらいます」
ハンスが神妙な顔をする。
「えーっ? どうしてよ。今すぐしよう?」
二人のやり取りを聞いていたアルモスが笑い出す。

「おい、ハンス。こいつは一つやられたな」
「ひどいよ、美樹ちゃん。僕より射撃場が好きだなんて……。第一、銃なんて危ない物を君が持つなんて、僕は反対です。君が考え直すまで、結婚はおあずけにします。いいですね?」
「そんな……。こんなにも愛してるのに……」
「だって、君が愛してるのはこっちなんでしょ?」
彼女が持っている銃を指差してハンスが言う。
「もちろんよ。見て! 完璧なまでに磨かれたシャープなフォルム。惚れぼれするじゃない? だけど、惜しいかな、ボディーがプラスティック製なの。本物だったら金属なんでしょ? 絶対そっちの方がいいのに!」

「困った人ですね。それより、こっちのルームの方が僕は気になるんですけど……」
「ああ。そこね。カラオケとか出来るよ。言ったでしょ? 時々友達呼んでカラオケパーティーやってるって……。楽しいよ。あなた達もどう?」
「それはいいけど……」
「映画だって観れるよ。100インチのスクリーンあるし……」
「ピアノも置けそうですね」
「うん。ここなら防音も完璧だから夜中だって弾けると思うよ」
ハンスは一通りホールの中を歩いて観察した。
「なかなかいい響きだ。気に入りました。それと、キッチンの方にワインセラーを置いてもいいですか? これだけスペースがあれば余裕だと思うから……」

「だったら、この下の食糧庫に置いたら?」
「まだ下があるんですか?」
「うん。秘密の通路はその下にあるの」
「ジョン達はこのことを知ってるんだね?」
「ええ。だって、設計したのは彼なのよ。それで、この家を提供してもらったの」

「だから、地上の部屋もあんなに広かったのか」
「そう。ここはもともと米軍関係の人の邸宅があった場所なんですって……。地下通路は前から掘られていて、頓挫した地下鉄計画のトンネルに繋がってるらしいの。でも、普段は通路なんて使わないから、この地下1階の部分を改造して使わせてもらってるのよ」
「なるほどね。驚いたよ。地下にアメリカンサイズの水槽があるなんて……いくら名前がマグナムだからって、僕に内緒で美樹ちゃんと接触するなんて……。あいつ、いつか焼き魚にしてやる」
ハンスがドイツ語でまくし立てる。
「おいおい、そいつは無理なんじゃねえのか? さすがに水槽の中の住人じゃな」
アルモスが茶化す。
「構うもんか。水槽ごと破壊してやるさ」
ハンスが毒づく。
「まあ、好きにしな」

「ところで、アル。住む家が決まったの?」
「ああ。公園通りのアパート」
「へえ。じゃあ当分はそこに落ち着くんだね?」
「まあな。日本には面白そうな場所がたくさんあるからな。退屈はしなそうだ」
「まったくだ」
ハンスは銃を抱えてうっとりしている美樹や背後にある地下室を振り返って言った。

その夜。兄のルドルフから電話が掛かって来た。
――「おまえが言っていた吹雪、ならびに菘という名前の生徒は藤ノ花高校の名簿には存在しない」
「存在しない? それじゃ、やっぱり消されたのかな? でも、菘は死んでなんかいないよ。生きたまま返したんだから……」
――「本当にそこの生徒なのか?」
「吹雪は自分でそう言った。でも、菘は……。もしかしたら違う学校なのかな?」
――「そういうことならジョンが得意だろう。奴に連絡してみよう」

「お魚さん? そうだね。ついでに警告もしといてくれる? 彼女と密会出来ないように通路の扉は塞いでおくってさ」
――「嫉妬か?」
「違うよ! でも、気持ち悪いだろ? 僕がいない留守に、勝手に入り込むなんて……」
――「わかった。伝えておく」
電話を切ると彼はリビングの中を歩き回った。ピアノの上には愛らしいクリストキントの人形が飾られている。
「今年のクリスマスは、僕の知らない風が吹く……」


そして、土曜日。ハンスは結城の車に乗って彼の家に出掛けた。
通されたレッスン室にはピンクのシクラメンが飾られていた。
「では、ここでお待ちください。龍一達を呼んで来ますので……」
そう言うと結城は部屋を出て行った。
「ウサギさんだ」
ソファーの上にあったぬいぐるみを撫でてハンスは部屋を見回した。
「静かだな」
彼はピアノに近づくとその蓋を開けた。そして、椅子に掛けると目を閉じた。海で聞いたメロディーが指先から溢れ、部屋の中に波紋を広げた。そして、透明な水の中で歌う少女の悲しみをそこに映した。

「その曲……」
ドアを半分開け掛けたまま、昨夜、バイクで走り去って行った少女が彼を見ていた。
「やあ。君か」
ハンスが振り向いて言う。
「この曲……。どこで聞いたの?」
「昨夜、海の公園で……」
「そういえば、あの時向こう側にいた金髪の人……?」
少女は憂いを秘めた大きな瞳で遠くを見ていた。

「あ、ハンス先生、この子が紹介したかった桑原アキラさんです」
結城が4人分のカップを持って来て、テーブルに置いた。後ろには龍一も控えている。
「僕は、ハンス・D・バウアーです。君のことはアキラって呼んでもいいのかな?」
「うん。じゃ、あなたのことは、ハンスって呼んでもいい?」
アキラが言う。結城はそれを注意した方が良いのか迷ったようだが、ハンスは構わないと言った。

「そのウサギさんは君のですか?」
ハンスが訊いた。
「いいえ。前からここにあったの」
アキラが答える。
「僕はウサギさんが好きなんです。それにお花も……」
ハンスが持って来た花の籠を見て言う。
「花言葉も好きなんですか?」
アキラは警戒するように訊いた。
「さあ。僕はよく知らないな。そんなのは人が勝手に付けたものだもの」
それまでじっとハンスのことを見ていた彼女は、少し肩の力を抜くと向かいのソファーに座った。龍一もその隣に座る。

「アキラは何故、そんなに緊張していますか?」
ハンスが訊いた。
「だって、結城先生からあなたは能力者だと聞いていたのに、まるで闇の風なんて見えないから……。ううん。闇というより光っていうか。よくわかんないけど、前にもそういうタイプの人がいて……。何かすごくいやだったから……」
「その人にいやなことをされたの?」
少女は俯いて膝の上に置いた手を軽く結んだ。

「僕は君がいやがるようなことはしません。龍一にもね。だから、怯えなくていいですよ。ねえ、直人君からも言ってやってくれませんか? 僕は怖いことないですって……」
結城は頷いたが、新幹線の中で起きたことを思うと、その内心は複雑だった。
「そう。彼は国際警察の人間で、テロリストや暴走した能力者の取り締まりをしているんだよ」
「そして、天才ピアニスト!」
ハンスが自分自身で付け足す。
「へえ。ピアニストなんだ。それでたった1度しか聞いたことのない曲も弾けちゃうんだね」
アキラは感心したように言った。

「あの曲を、もう一度歌ってくれますか?」
ハンスがピアノを弾き出すと、少女は傍らに来て声を出した。ハンスは歌に合わせて曲をアレンジした。


  渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
  速い水の流れの中で 凍りついた約束の羽を広げて
  ただ一人だけのあなたを


ピアノの音はまるで途切れることのない水の流れのようにどんどん深みを増して行く。鍵盤の一つ一つが真珠のように白い光沢を纏い、少女の声と呼応した。しかしサビの所で不意に歌声が途切れ、少女の頬に涙が伝った。彼女はその理由を答えなかった。が、ハンスは黙って曲を弾き続けた。


  渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
  速い水の流れの中で……


穏やかな波に包まれて眠る水底に沈む魂の声を隠すように……。


  渦潮の中でいつも……


幾重にもメロディーが重なって、夢とも現実ともつかない世界に漂っていた。
見ると、弾いているハンスも涙を流していた。二人の心の底にある悲しみが共鳴し、その場にいた龍一や直人の心にもその波動は広がって行った。

ハンスが演奏を止め、振り向くと、そこにはある種の連帯感のような空気が生まれていた。
「それじゃ、僕はもう帰ります」
ハンスが言った。
「もうって、お話は?」
結城が訊いた。
「今日は挨拶しに来ただけですから……。そうだ。龍一、君は将来何になりたいですか?」
「医者です」
少年が答える。

「そう。僕の兄もね、昔は医者を目指していたんですって……」
「そうなんですか?」
龍一が少し驚いて彼を見つめる。
「彼は悪い奴を取り除く専門になったんですけど、君は?」
「ぼくは産婦人科医になりたいんです。赤ちゃんが好きだし、父もそうだったので……」
「いいですね。僕も赤ちゃんは大好きです。よかった。龍一とも友達になれそうで……」
「友達になってくれるんですか?」
少年がおずおずと尋ねる。
「喜んで」
ハンスが笑ったので彼も頬を緩めた。
「それじゃあ、お宅までお送りしましょう」
結城がコートを羽織って言った。
「ありがとう。それじゃ、またね」


外に出ると僅かに雪がちらついていた。
これから本格的な冬が始まる。家では、美樹があたたかい夕食を作って待っていた。
新しい夜が来る度に灯す電飾の船に乗って、自分達はどこにでも行けるような気がした。
それから、彼らは小さなクリスマス会に出る度にプレゼントを交換し、クリスマスソングを歌った。パーティーでの御馳走はケーキにチキン。フルーツにサラダ。ピザやお寿司ということもある。ハンスもたくさんの人と交流し、日本のクリスマスの雰囲気を楽しんでいた。
「本番が来る前に、メリークリスマスのストックがなくなってしまいそうですね」
ハンスが笑いながら言った。

「ドイツでは、クリスマスに雪は降る?」
美樹が訊いた。
「降りますね。緑のクリスマスってこともあるけど、大抵は白いクリスマスになります」
「それってちょっと憧れよね。この辺ってほとんど雪降らないから……」
「寒いですよ。もっとも暖炉があるから暖かいけど……」
リビングでは電気仕掛けの暖炉と、人工の樅の木の灯りがやさしい癒しの空間を演出している。

その夜、天気予報によると、東北や北海道では吹雪が激しくなりそうだと伝えられた。
「吹雪……」
テレビの画面に映された雪の様子を見て、その意味を知った。彼は、美樹に頼んで「吹雪」という文字を小さなプレートに書いてもらった。
それから、海に沈んだ少年の小さな墓を庭の隅に作った。
「そうだ」
ふと思い出して、ハンスは真珠の指輪を十字架に掛けた。
「美樹ちゃんへのプレゼントは他にいい物を見付けたから……。君にあげる」


灯りの消えた夜。少女はそっと土を掘り返した。そこに何も埋まっていないことを知りながら……。
「吹雪……」
自分が入るには小さすぎるその十字架の下に、こっそりナイフを埋めた。
「これで、一緒にいられる。あいつと……」
少女はそこに掛けられていた指輪を外すと、そっと自分の指にはめてみた。遠い街灯の光に翳すと、微かに白い花びらのような真珠が浮かび上がった。庭にはたくさんの植物が植えられていて、花も咲いていた。
少女は一度だけ指にキスすると、そっと指輪を返し、微かな声でありがとうと言った。

「気が済んだか?」
闇の中から声が響く。
「さあ、もういいだろう。そこから出て、こっちに来るんだ。花を傷付けたくないからね」
少女は弾かれたように立ち上がると、そこを出て、海の方へと歩き出した。二度と戻れない夜の国へと……。


それからまた、幾つかの夜が過ぎ、アドベントカレンダーの小箱が全部開いた夜。
ハンスは美樹と二人きりだった。
「美樹」
ハンスが呼んだ。
「これは、僕からのクリスマスプレゼントです」
赤いリボンの掛かった小箱を渡す。
「ありがとう。開けてみてもいい?」
「もちろんです」

包みを解くとそれは精巧に出来たモデルガンだった。
「すごい! ボディーも金属製なのね」
「女性でも扱いやすい軽量小型タイプです」
「ありがとう! 早速書斎に飾ろうかな?」
「あまり人には見せないでくださいね。特にルドには……。彼は女に銃を持たせたくないと考えてるんです」
「モデルガンも駄目なの?」
「はい」
「案外、保守的なのね」
「そうかもしれません」
彼はテーブルから垂れ下がったリボンを見つめていた。

「ねえ、わたしからもプレゼントがあるの。先に地下のオーディオルームに行って待ってて」
「オーディオルーム?」
怪訝な顔をするハンスを追いたてるように美樹は言った。
「これを仕舞ったらすぐに行くから……」
「わかりました」
そう言うとハンスは地下室の扉を開けて降りて行った。

ホール状になっているその部屋に入ると既に明かりが灯って暖房も効いていた。
「何だろう? プレゼントって……」
ハンスが首を傾げていると、デジタルの時計が午前零時を示した。その途端、ステレオのターンテーブルが回り、微かなノイズのあとで、曲が始まった。
「ショパンのバラード……。でも、ピアニストは誰なんだ……」
録音が古いため、ところどころノイズがあったが、それは美しい音色だった。夜の静けさに透ける闇。音色は豊かで深みがある。
「……知ってる。僕はこのピアニストの音を……でも」

今すぐ走って行ってそれを確かめたかった。が、心がその場に捕らえられて足を動かすことが出来なかった。四方に設えられたスピーカーから降り注ぐ音を抱きしめるように両手をクロスさせて頭上を見上げる。
「ああ……シュミッツ先生……あなたなんですね。僕をここへ導いたのは……」
美樹がゆっくりと近づいて来た。
「これがわたしからのクリスマスプレゼント」
そう言ってレコードのジャケットを渡す。そこには紛れもなく若い頃のルカス・シュミッツの姿があった。彼が唯一、師と認めるピアニストのそれが……。

「たった1枚だけ日本で発売された彼のアルバム」
「もう2度と会えないと思っていました。もう2度と聴けない幻と……。これをどうやって手に入れたのですか?」
「父が持っていたの」
「えっ?」
「おかしいでしょ? クラシックなんて聴かないと思ってたけど……。昔、父は芸能関係の仕事をしていたことがあるの。その時、外国のアーティストのホールの手配なんかもやっていたんですって……。確かに家にはいろんな人のサインとか写真なんかも残ってる。残念ながら、シュミッツさんのはこれしかなかったのだけれど……」
「十分です。僕にとってこれ以上のプレゼントはありません。本当にありがとう。大切にします」

彼はジャケットと美樹を抱きしめると嗚咽を漏らした。
最高のクリスマスイブだった。ベッドに入ってからも興奮していたハンスはなかなか眠れそうになかった。それに、今夜はいよいよ本番なのだ。彼は5時になるとそそくさとベッドを出て階下に向かった。美樹はまだぐっすりと眠っている。

「アル!」
ハンスは地下室に降りて行くと呼んだ。
「ほら、持って来たぜ」
アルモスが籠を渡す。
「ちゃんと暖かくしてた?」
「大丈夫。暖房入れてたし、リネンで覆ってたからな」
ハンスはそっと覗いて笑う。
「ありがとう」
彼はうれしそうだった。
「そうだ。僕からのクリスマスプレゼント受け取ってくれた?」
「ああ。あんがとな。最高のワイン。楽しませてもらうよ」
「よかった。じゃあ、僕は美樹ちゃんが起きる前に行くからね」
そう言うとハンスはその籠を持って寝室へ向かった。

「ふふ。美樹ちゃん、驚くだろうな」
ハンスはそっと籠の中から眠っている子猫達を取り出すと美樹の枕元に置いた。子猫も彼女もまだ眠っている。彼は自分もベッドに潜り込むと、その寝顔を見つめた。
「……少年は他所の街に行きました。そして、少年はそこで何をしたのでしょう? それは……君に幸福を届けたくて……海から陸に上がって来たのです。Gute Nacht!(おやすみ) 真珠で出来た女の子のために……」

それから1時間ほどすると、子猫達が起きだして、美樹の髪にじゃれついた。
「あん。ハンス、くすぐったい」
彼女が薄く目を開けてこちらを見た。
「ミャア!」
グリーンの目が目の前にあった。
「えっ? 何? 子猫が……」
慌てて起き上がる彼女の膝に飛び乗る黒い子猫。

「メリークリスマス! 美樹」
朝の光の中で、ハンスも白い子猫を抱いて微笑む。
「可愛い! これ、ハンスが?」
「いいえ。僕は昨日あげたですよ」
「じゃあ、これは……」
「クリストキントからのプレゼントですよ」
愛らしい子猫達にじゃれつかれて幸せそうに笑う彼女を見て、ハンスもまた幸せな思いを噛み締めていた。

「名前は何にする?」
彼女が訊いた。
「それはもちろん、君がいつか聞かせてくれたあの物語と同じ。ピッツァとリッツァにしましょう」
「そうね。本当にうれしいよ。ありがとう。大切にしようね。わたし達の新しい家族だもの」
2匹の子猫がミャアミャアと鳴く。
「きっとお腹が空いたのよ」
「それじゃ、ミルクをあげましょう」
二人は小さな子猫を1匹ずつ抱くと、階下に降りて行った。

Fin.